孤独を癒すものは? 『地球で最後のふたり』

地球で最後の二人
またもや公開終了しちゃった映画です。
日本でも公開されたので、ご存じの方も多い『地球で最後のふたり』。
僕の好きなタイ映画BEST5に常に入っている作品です。
この作品については書きたいことがいっぱいあります。
なので長いですよ、今回のエントリは。
し・か・も! かなり独りよがりです。心して読んでください。
原題は『LAST LIFE IN THE UNIVERSE』。
タイ語のタイトルは『ルアンラックマハーサーン・ノーイ・ニット』
(ノーイとニットの運命的な愛の話……というような意味だと思う)。
浅野忠信主演のタイ映画(5カ国合作映画だけど、監督と脚本、舞台がタイなので僕的にはタイ映画にカウント)として、
日本では注目されているのかもしれないけれど、
僕としては、浅野だけじゃなくって、
監督はじめ、脚本、音楽などにタイの若者文化の中心にいる人たちが
結集していることに注目したいですね。
監督はペンエーク・ラッタナルアン。
これまで撮った作品『6ixtynin9(原題:タロック69)』は
日本のTSUTAYAでレンタルしてるし、
『忘れな歌(原題:モンラック・トランジスター)』も
2002年末に(たった3週間くらいだったけど)日本で公開されていて、
いわば、タイ映画界の旗手といった人。
脚本はペンエークに加え、作家・プラープダー・ユンが手伝ってます。
この人は、タイのトレンドリーダーのような作家。
日本で言うと村上春樹のような感じなのかな?
最近のタイの文芸界を語るときには、名前が筆頭にあがるような人です。
なので、ブックフェアとか、国立大学の学園祭の文学部とかにいくと、
よくこの人が講演していて、僕はもう3回くらい見かけてます。
さらに音楽はタイを代表する2大インディーズ・レーベルの
フアラムポーン・リディム&スモール・ルームが担当。
かかってる音楽、僕全部大好きです。
フアラムポーンの音楽がかかるセーラー服パブが本当にあったら、
全財産つぎ込んでも通っちゃうかも。
ファッションも、バンコクの中でも最先端を突っ走るブランド「SODA」が担当してます。
当事におけるバンコク・カルチャーのいちばんホットな部分を集めて作った映画といえます。
ただ、この映画、タイの若者文化の中心にいる人が作っただけあって、
中心部だけで盛り上がっていた様子。
普通のタイ人に言っても「はぁ?」とあんまり興味なさそうな顔をされちゃう映画でした。
で、タイではあまりの人気のなさに公開2週間で打ち切り……。
余談ですが、この国の映画事情はその辺かなりシビアにできてます。
大手のシネコンの場合、どんな作品でも、どんなに宣伝をやっていても、
客が入らないと上映3日間で打ち切りとか。
すぐに都心部でやらなくなっちゃったりとか。
なので、シネコンは基本的に大衆向けの娯楽作品しかやりません。
たま~に何かの気まぐれでミニシアターでやるような作品をやることもあるけど、それも年に数作品。
(外国人が多く来るエンポリのSFXシネプレックスはけっこうマイナーな作品もやってるけど)
なので、「映画好き~」というタイ人でも、
今どきのハリウッド映画しか見てない人がいっぱいです。
日本人の場合「映画好き」っていうと、
マイナーなフランス映画とか、すんごい昔の映画とか知ってる人のことをさしますが……。
それはさておき、この映画のあらすじとか概要は、
日本のオフィシャルHPをご覧ください。
(ちなみに、タイ側のオフィシャルHPはすでにつぶれちゃってます……)
(この先ネタバレがあるかも。
あと、本編を見てない人には何がなんだかわからないと思います。
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地球で最後の二人02


この作品、浅野忠信演じる主人公・ケンジがかなりの変人。
まず、理由もなく常に自殺したがっています。
冒頭から首を吊ろうとしたり、枕で顔をふさいで窒息死しようとしたり、
橋から飛び降りて死のうとするんだけど、
本気で死のうとはしていません。
首吊りの縄も、首を吊った瞬間に解けるようになっているし、
そもそも枕で顔ふさいで死ねるわけがない。
さらに、異常なまでの潔癖症。
彼のアパートには本が大量にあるのですが、それが整然と並べられ、
「2003 8 新 200」って感じにラベルをつけて図書館のように整理している。
靴箱に入っている靴も、月火水木金土と曜日別に履く靴が決まっていて、
なんでも整理しないと気がすまない。
また、おそらく人と知り合って仲良くしたり、
人としゃべったりするのも苦手な様子です。
運動神経も全然よくない。
主人公がそんな変人なので、たいていの人は彼に感情移入できないはず。
彼の性格に関する説明がもっとあればよかったんでしょうが、
それもないままに物語が進行してしまい、
多くの観客は、「おいてきぼり」になってしまいます。
じゃあ、ケンジはなんで死ぬフリばっかするのか?
ここから先は僕の勝手な想像と解釈ですが、
彼は自分の人生に、おそらく倦怠感や軽い絶望を感じていて、
「死」はそれから解放される一番の近道なわけです。
死ねば、今の退屈な生活から、今の憂鬱な気分から解放される。
そう思っているはず。
しかし、解放への近道とはいえ、死んだらすべてが終わってしまうわけで、
ケンジはそのことも十分承知しています。
だから、「死ぬフリ」にとどまっているんです。
「死ぬフリをする」ことは、ケンジにとって、
「自分はいつでも死ねる。自分は『自殺する自由』を持っている。
自分はいつでも自分自身を解放できるのだ」
と確認する行為なんでしょう。
じゃあ、なんでケンジはそんなに倦怠感を感じていたのか。
それが、この作品のテーマ(と僕が勝手に考える)
「孤独と愛」につながってくると思います。
ケンジは異国でたった一人で生きていて、友人も恋人もいません。
家族は、大阪に住むヤクザの兄が一人いるだけ。
その兄も、弟をキチガイ呼ばわりして、あまり理解していないようです。
さらに兄は、大阪で不始末(組長の娘をレイプ)をしでかして
バンコクに逃げてくるのですが、
来てまもなく組長の刺客に殺されてしまいます。しかも目の前で。
正真正銘の孤独です。しかも、孤独な理由の半分は
「人を寄せ付けない」彼自身の性格に起因するもの。
どうしようもない孤独です。
そして孤独を感じるからこそ、物語中に出てくる
絵本『さびしさの彼方を。』に彼は興味を持つのでしょう。
でも、ケンジは物語が進むにつれて、
同じく孤独なノーイ(自分が原因で、妹が交通事故に遭い、重症)
と出会い、お互いを理解していくことで、理解者を得、
彼女の愛によって孤独が癒され、
人生に希望が見え、死ぬフリをしなくなります。
むしろ、最後は積極的に生きるために行動し始めます。
なんだか長くなってきたので、強引に結論にしますが、
「孤独は絶望、そして死に至る病であり、
それを癒すものは愛である」これがこの作品のテーマなんじゃないかと、
僕はそう解釈したわけです。
なんでこんなことを書いたかというと、
公開当時タイでは「何これ? わかんない!」という反応があまりに多く、
日本でも似たような感想を持つ人が多かったので。
無理やりにでも解釈してみようかと、そう思ったわけですよ。